某国の企み

 某国における超現実的国難対策会議は通称罰当たりプロジェクトと呼ばれる。メンバーは理想主義者から非人道的だと罵倒されることを、あえて承知の上で、覚悟を据えて、非人道の範疇に入りながらも、その中で最も人道にかなう方策を探ろうとしている。

 この国の国民は、もはや理想主義者の言葉を信じなくなっている。現実を良くすることに、彼らが無力であり、心の奥底からの声ではなく、自分たちの社会的立場を守ろうとする、ひとつの保守的社会勢力だと、冷めた目で見ている。

 一方で、現実主義に立った勢力による国の運営も、もはや手に負えない状態になりつつあり、超現実的な方策を探らなければならなくなっている。そのことは国民の中に、じわじわではあるが、理解されつつある。

 つらいことは強制できない。なら、自己責任による判断によらねばならない。ここまでは、さほど問題なく行きつくのだが、問題は判断能力の失われた人の人権擁護をどうするかだ。家族といえども、愛が強ければ強いほど、つらい判断はできないものだ。平気で「どうぞどうぞ」なんて言う家族がいれば、とんでもないことで、それだけで犯罪に等しく、それを根拠にすることはできない。

 現実的に、最も社会的負担の大きいのが判断能力を喪失した人々である。これは、どうしようもなく現実である。本人たちも正気であれば心苦しく、楽になりたいと思う可能性が高いに違いない。

 一瞬でもいい。自己責任による判断が可能にする。そんな薬ができないか。実際は、ほぼ近いところまで来ているものの、規制が厳しくて、ものにできていない。そんなことがありはしないか。それが、この罰当たりプロジェクトの検討事項のひとつになっている。

一罰百戒

 この国では、全国すべての都道府県で、所轄の警察署に、署長直属の特別班が置かれていて、病院や市役所からの安楽死に関わる情報は、すべてここに集約され処理される。ほとんどの案件は形式的な書類審査で流されるが、やはり人間のすることなので、中には悪意をもって企まれた可能性があるものもあり、捜査が行われ殺人事件として立件されるものもある。だが、それは一罰百戒として、ときおり世間に知らしめる程度で済まされている。

ある老人の安らかな旅立ち

 その朝、いつまでも起きてこない主人の寝室の障子を開いた老婦人は、安らかな表情で眠っている主人に、そっと声をかけた。

「あなた、もう8時ですよ」
 主人は反応しない。だが、あまりにも静かなことに違和感を覚えた夫人は、そっと頬に手をやった。なんだか冷たい。鼻の下に指をやる。膝立ちの夫人の下半身の力が一瞬に失せた。息をしていない。
「あなたぁ!おとうさん!」と叫びながら、主人の頬をひっぱたいた。そして、つねった。手が止まり、へなへなと座り込んだ。しばらくの時が過ぎた。
 主人の布団の傍らには小さな茶色の小瓶があった。見かけないものだった。手に取ると、中は空っぽで、中身を説明するラベルも貼っていない。
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 医師は、もちろん、この秘薬のことは知っている。この場合の処置の手順も周知されている。多くの場合、急性心不全と診断し、自然死とするのが暗黙の了解事項となっている。
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 この薬は全部を服用したのちに、ラベルが簡単に剥がれるので、それを丸めて飲み込むことで効果を発揮します。ラベルには、こんな記述があったことも、もちろん、医師は知っている。
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小役人エム氏の涙

 ある国のある町。その国はかつて福祉国家をめざしていたが、国力の衰退と高齢化による様々な困難に直面し、とうとう窮余の策をとらざるを得なくなった。そんな国の行政の末端である市役所に勤めるエム氏は、だれもが嫌がる役割に追いやられた、窓際の小役人である。

「こんな薬もあるんですが……」

 エム氏は、おそるおそる小声で、その日に相談にやってきた、見るからに安物の衣類に身を包み、不健康な黒ずんだ、しわしわ顔をした、男の老人の、目の前の机の上に、小さな薬瓶を、注意書きのラベルを老人の側にして、そこに目が行くように誘導した。

「読めますか?」

「字が小さくて見えませんな」

「これが大きくしたものです」と言いながら、エム氏は説明書きを拡大コピーしたA4サイズの紙を、そっと瓶の脇に置いた。

 沈黙の時間がしばらく過ぎて、老人が口を開いた。目はエム氏の表情を観察していた。そして、エム氏の瞼の下で、うっすらとした液体に光が反射しているのを見逃さなかった。

「あんたもつらいな」

 老人は、その瓶を手に取り、立ち上がり、それをポケットにいれると、それ以上はなにも言わずに、エム氏に背中を向けた。

 数日後、住民票や戸籍を扱う係からエム氏のデスクに一枚の書類が届けられた。それは、あの老人の死亡届が出された旨の連絡書だった。エム氏には相続人への債権請求という新たな仕事が発生した。



お寿司屋さん

 お寿司屋さんの寿司が食べたい。最近そんな欲求が強くなってきた。

 回転ずしには飽きがきた。物足りない。このごろはサビ抜きばかりで、小さな子どもを連れていくにはいいけど、大人だけで行くところではなくなった。
 スーパーで買う寿司は手ごろだけれど、やはりシャリが問題だ。
 昔ながらの、お寿司屋さん、はすっかり減ってしまった。住宅街でも希少価値になった。繁華街の寿司店は、専門高級店か、居酒屋なんかを併営している大衆店が多い。ところどころ見かける昔風の店は、あまりに古びれていて、入るのにちょっと躊躇する。
 手ごろな規模の専門店で、清潔感があって、値段が大衆価格で、美味しい。そんな希望に合う店がやっと見つかった。よく流行っている。やっぱり、私と同じ思いの人は多くいる。この様子なら確実な経営ができそうだ。お馴染みさんになるには財布の中身が乏しい私だが、しばしば通う程度ならできそうだ。是非そうしたい。

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